作者:桜めっと
チェリーは神に誘われ、やや警戒しながらも神の家の前に立っていた。
その直後、急ぎ駆けつけたハヤト、虎之助、あみにゃんの3人が追いつき、神も仕方なく全員を自宅に招き入れることにした。
玄関に入った瞬間、どこか普通ではない雰囲気が3人を不安にさせた。
神の家は整然としていたが、女性的な小物が多く、部屋の片隅には可愛らしい服が何着も置かれていた。
神の恋人のものにしては、幼すぎる。さらに壁には、見知らぬ少女の写真が飾られている。
「…神。…いや、カエル先生?」
ハヤトが問いかけると、神は驚いたように笑みを浮かべた。
「そうだよ。よく気づいたね、ハヤト。意識して話し方も変えたつもりなんだけどな」
あみにゃんは青ざめた顔で神を見つめ、「じゃあ、私にあんなアドバイスをしたのも…?」と尋ねた。
すると、虎之助が一歩前に出て冷静な口調で話し始めた。
「神、あなたは私たちを心理的に誘導していたんだね。ハヤトには『ヒーロー効果』を、あみにゃんには『感情の増幅』と『自己保護の正当化』を使って行動を仕向けていたんだよね」
神は虎之助の言葉に感心したようにうなずき、「その通りだよ」と淡々とした声で認めた。
虎之助は神を見据えながら、ハヤトとあみにゃんに向けて、神の心理的な誘導方法について説明を始めた。
母親を心配する気持ちから読み漁った心理学の本からの知識が、虎之助によって語られていく。
「まず、神がハヤトに対して使ったのは『ヒーロー効果』。
人は『自分が誰かを守るべきヒーローである』と感じさせられると、無意識にその役割を果たそうと行動する。
神はハヤトに『ネネコを救えるのは君だけだ』と暗に期待をかけることで、ネネコの正体や行方を必死で探らせていたんだ」
虎之助がハヤトを見て続けた。
「ハヤトがネネコの行方を追ってたのも、ネネコのために何かをしてやりたいという気持ちが自然に高まったからでしょ?でも実はそれ、神に上手く誘導されてたんだ」
ハヤトは虎之助の説明に驚き、神を見つめた。
今まで感じていた違和感の正体が、ここでようやく明確になってきた。
続いて虎之助はあみにゃんに向き直った。
「あみにゃんには『感情の増幅』と『自己保護の正当化』を使って誘導したんだ。
まず、神はあみにゃんが私に対して抱いている不安や嫉妬心を巧みに増幅させた。
例えば、『虎之助がネネコに惹かれているように見える』とか、『もし虎之助が他の人に取られるとしたら寂しいだろう』といった感じで、暗に嫉妬を刺激してあみにゃんの不安を煽った」
あみにゃんが息を呑む。
何気なく交わした会話が今思い起こされていく。
彼女の心の奥底にあった不安が、神の言葉で引き出されていたことに気づいた。
「さらに、神は『自己保護の正当化』を使って、あみにゃんに『虎之助を守るための行動』を正当化させた。
あみにゃんがネネコに脅迫文を送ったのも、自分の不安を解消するために必要な行動だと感じてしまったから。
神はあみにゃんに、あえて不安を抱かせた上で、その解消手段としてネネコに脅迫することを正当化させたんだ」
あみにゃんはその言葉に打ちのめされ、震える声で神を見つめた。
「…私があんなことをしたのは、神に操られていたから…?」
神は虎之助の説明に満足げに頷き、「その通り」と静かに認めた。
神は全員を見渡しながら、狂気を帯びた笑みを浮かべた。
「君たちには感謝しているよ。
僕がずっと追い求めていたものに近づけたからね。
ネネコが欲しかったんだ。
ネネコの全てを知りたくて、ネネコのアカウントにアクセスしようとしたけどできなかった。
でも、君たちがネネコの元へ導いてくれたんだ」
虎之助がネネコのメールのログインパスワードを知るきっかけとなった、アカウントへの不正アクセス。
あれは、神の仕業だったようだ。
「ネネコ…やっと本当の君に会えた…」
彼はチェリーを見つめ、その瞳にはもはや現実と幻想が入り混じっていた。
そして、神は昔話を始めた。
「僕には病気がちの妹、マドカがいた。
彼女は穏やかで優しく、僕にとって大切な存在だったんだ。
ずっと大切にしていたのに、ある日自ら命を絶ってしまった。病気がつらかったのかもしれない」
ハヤトは、室内を見渡した。歴史を感じさせる一軒家。
ところが、他に家族が住んでいる気配はない。
神がたった一人で住むには違和感があった。
「…ご両親は…」ハヤトの言葉に、神は首をかしげた。
「両親の存在はそんなに重要かな?僕がマドカをずっと守ってきた。
両親はマドカのことをちっとも考えていなかった。咳が出ているのに学校に行かせようとしたり、危険がいっぱいの外に連れ出そうとしたり。おかしいだろう?
むしろ、マドカにとって両親が『余計なもの』だったのかもしれない。
僕たちが2人だけでいたほうがマドカはずっと幸せだった」
「…あの日、両親が不幸にも事故に遭った時、僕は『これでようやくマドカを守れる』と思ったんだ。誰にも邪魔されることなく、マドカと2人だけで生きていけるってね」
神の微笑は優しいままだが、その目の奥には一瞬、冷たく鋭い光が宿っていた。その異様な空気に、その場にいた全員が恐ろしい可能性を考え、言葉を失った。
そんなことを気にもせず、神は言葉を続けた。
「マドカを失って以来、ずっと心に空洞ができたままだった…そんな時、ネネコに出会った。
ハヤトのお陰だよ。
あれは運命の出会いだ。
ネネコの声が、雰囲気が、マドカとそっくりだったんだ。
ネネコが配信で笑いかけてくれるたびに、まるでマドカが生き返ったような気がしたんだ」
チェリーはその視線に圧倒され、無意識に後ずさったが、神は気づかずに続けた。
「チェリー、いや、ネネコ。君はマドカの再来なんだ。君を僕だけの妹として守らなければならない。君がネネコである限り、僕のものであり続けるんだ」
そう言うと、神は部屋の隅に置いてあった可愛らしいデザインの服をチェリーに押し付ける。「これ、マドカに似合うと思って用意してたんだ。君が着れば、もっと彼女に近づける…」
チェリーは恐怖で体が動かず、神の強引な手に押し付けられるままになっていた。
神の中では現実と幻想が完全に混じり合い、チェリーがもはや自分の妹「マドカ」だと信じ込んでいる。
「チェリー、逃げて!」
あみにゃんが叫びにも似た声をあげても、チェリーは動かない。
ハヤトは耐えきれず、神をまっすぐに見つめて叫んだ。
「神、あんたがやっているのはマドカさんを守ることじゃない!
それはただの支配欲だ。
妹を支配して、ただ自分のために満足したいだけなんだ!」
その言葉に、神の動きがぴたりと止まり、押し付けようとしていた服がチェリーの手前で落ちる。
神の顔は、驚愕と困惑の色に染まっていたが、そこにはどこか異様な狂気も滲んでいた。
「僕が…支配…?僕が…大切な妹を…?」
神は信じられないというようにかすれた声で繰り返し、瞳が焦点を失ったように虚ろになる。
次の瞬間、彼は頭を抱え込んでぶつぶつとつぶやき始めた。
まるで誰かに話しかけるように、低く掠れた声が途切れ途切れに漏れていく。
「違う…僕は守りたかったんだ。誰よりも、僕だけが、マドカを…彼女は弱かったから…両親は彼女を理解していなかった…僕がいなければ、あの子はきっと…」
彼の顔に浮かぶのは哀れみでも後悔でもなく、むしろどこか穏やかな微笑みだった。
言葉が徐々に熱を帯び、まるで自分の信念に酔いしれるかのように声を張り上げ始める。
「マドカは僕を必要としていたんだ!外の危険から、誰の手も届かない場所で、2人だけで…マドカはそれで幸せなはずだったのに…それなのに、なぜ…」
神の手が再びチェリーに向かって伸び、今度は掴みかかるように衣服を握り締めた。
その瞳にはもはや妹を守ろうとする愛情ではなく、執拗なまでの所有欲が渦巻いていた。
「君は僕から逃げられないんだよ…マドカ、僕が全てを捧げて君を守るんだから!
両親も…そう、あの時、あいつらを遠ざけたのは僕だ。
奴らがいなくなれば、君はもっと僕のそばにいられるはずだった。なのに、どうして…」
最後の言葉は、怒りとも悲しみともつかない狂気に染まり、神の顔には異様な笑みが浮かんでいた。
その笑みは、何もかもを失った者の絶望とも、すべてを得た者の歪んだ満足とも言えぬ複雑な表情だった。
周囲に立つハヤトたちはその狂気に息を呑み、凍りついたように立ち尽くした。
神は、虚ろな目でチェリーを見つめながら囁き続けた。
「君が僕を拒んでも、僕が君のすべてを守ってあげるから…ね、マドカ。どこにも行かないで」
しかしその目は、現実のチェリーを見ているのではなく、どこか遠い記憶の中の幻影を見ているかのようだった。
彼の中で現実と幻想が崩れ、意識が混乱の中に呑み込まれていく。
やがて呼吸が不規則に乱れ、神はその場で白目をむいて倒れ、意識を失った。